2006年09朁Ed日

タレとツメ

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 東京の池袋のはずれで、ぼくが小さなバーのマスターをやっていることは、前にも書いた。このあいだ、その池袋の、わりに安く食べさせてくれるすし屋で、店に出る前に軽く腹ごしらえをしていたときのこと。ぼくよりさきに、30歳前後と見えるOLらしい二人連れがきていて、そのひとりがタコを注文した。
「タレをぬってね」と彼女。「あいよ」と、すし屋のおやじさん。
 とたんにぼくは、20年ばかり前のことを思い出した。
 そのころぼくは、東京の西早稲田に住んでいて、ぼくがいたマンションのすぐ近くに、小さなすし屋があった。
 原稿書きの仕事が一段落して、そのすし屋へ、夜食がてらに一杯やりにいったら、見かけたことのない中年男の客がいて、ぼくがぬる燗の酒を飲みはじめたところで、タコを注文した。そして、タレをぬってほしいんだけど、と言い足した。
 そのすし屋のおやじは、ぼくとほぼ同年齢で、まるい顔がなんとなくタコを連想させる。本人もそれを自覚しているので、タコの注文を耳にした瞬間に、ぼくは思わず、彼のほうに視線を投げた。
 ぼくの視線は無視して、おやじはちょっと面白くなさそうな表情でタコを握ったが、やがてその客が帰ると、愚痴でもこぼすような口ぶりでつぶやいた。
「まったく、もう……。うちはすし屋だよ。うなぎ屋じゃねぇんだから……」
 彼の面白くなさそうな表情は、「タコ」という言葉に反応したぼくの視線のせいよりも、むしろ客の口から出た「タレ」のせいだったらしいと、ぼくもすぐに気がついた。
 うなぎ屋が使うのがタレで、すし屋が、タコやアナゴやシャコに使うのはツメだと、その程度の知識はぼくにもあった。
 そのころはもう、タコなどにツメをぬることが少なくなっていて、マグロなんかと同じように、ちょっと醤油をつけて食べるのが一般的になっていた。それでもたまには、ぬってくれと注文をする客もいたのだが、そんな客たちも、使う言葉はほとんどがタレだった。
 醤油とみりんが主原料で、それに何年何十年と、そこをくぐる蒲焼きの味がしみこんだうなぎ屋のタレと違って、すし屋のツメは、アナゴの煮汁とハマグリの煮汁を煮つめて作る。もっとも、昭和の30年代から、すし屋のネタから煮ハマグリが急速に消えていって、20年ほど前のそのころは、ハマグリのかわりにホタテのヒモを煮て、この煮汁とアナゴの煮汁でツメを作っていると、西早稲田のオヤジから聞かされていた。ツメは「煮ツメ」がつまったものだろう。
 言葉は時代とともに変化していくものだから、ツメがタレのなかにとりこまれてしまっても、しかたないのかもしれないが、タレとツメとの伝統的な違いは、やはり言葉として残しておきたいな……。池袋のすし屋で、最近では珍しく、タコにタレをぬらせた女性を、横眼で見ながら、ぼくはそんなことを考えていた。

投稿者machizukuri : 2006年09朁Ed日 | コメント(0)

2006年05朁Ed日

水族館のホッケ

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 マスコミ業界へ進もうとしている若者が相手の専門学校で教えていたころ、ぼくのゼミでは、月に一度くらい、動物園や水族館へ出かけていた。動物園や水族館からの、お客さんへの情報の出し方を、ゼミの研究テーマにしていたからだ。
 じっさいに出かけてみると、学生たちの多くは、ゼミのテーマなんかそっちのけで、動物たちをただ面白がって見物していたのだが、そんな学生たちが、毎年必ずといっていいほどに、面白がったりびっくりしたりしてくれたもののひとつに、水族館のホッケがあった。
 大森海岸のそばのその水族館には、寒い海の魚たちを集めたコーナーがあって、そこに並んでいる水槽の、はじっこのひとつの隅に、ホッケがいた。
 東京の居酒屋では、メニューにたいていはホッケがはいっている。ホッケは、身がポコッととれて、魚の食べ方が下手な若者にも食べやすいせいだと思うが、けっこう人気のある肴だ。
 水槽の底に、まるでうずくまっている感じでじっとしているホッケは、色も地味で、とにかく目立たない魚だから、あれがおまえたちも居酒屋なんかでお馴染みのホッケだよと、指さして教えてやらない限り、学生たちはまず気づかない。
 だか、一度ホッケに視線がとまると、ほとんど例外なく、感激の反応を見せてくれる。
 「へえっ! これがホッケ! ぶさいく!」
 なかにはこんな大声をあげて、まわりの見物客を笑わせた女子学生もいた。
 ゼミのメンバーが、生きている動物たちの姿や動きを楽しみながら、同時にゼミのテーマについて考えてくれるようになるまで、例年、半年くらいの時間はかかるのだが、これは準備期間みたいなもので、こちらもべつに焦らない。そのあいだに、たとえば水族館では、ふだんは料理されたものか、スーパーなどで切り身や開きしか見ていない魚の、動く全身像に出合い、それと魚たちの名前が、たとえ二つでも三つでも、正確に結びつくようになれば、それなりの効果はあるのだと考えることにしていた。
 それにしても、いまの子どもたちの若者たちの多くは、こちらがびっくりするくらい、魚の区別がつかない。カツオもサバも、アジもイワシも区別ができないのがたくさんいる。
 だが、考えてみれば、今日の日本の多くの町には、お使いにきた子どもたちに、魚のことをあれこれ教えてくれる魚屋のおっちゃんがいないのだ。スイカの食べごろの音を教えてくれる八百屋のおばちゃんもいない。
 何十年か前の町には、学校ではまず教えないことを、具体的に教えてくれる機能があったと思う。ぼくの店がある東京の池袋でも、いま町の改造が進んでいるけれど、その計画のなかに、町の教育機能がちゃんと盛り込まれているようには、とても思えないのだ。

投稿者machizukuri : 2006年05朁Ed日

2006年01朁Ed日

サトイモの合性

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 身欠ニシンを子どもに食べさせると、根気がよくなる―。どこで仕入れた知識かは聞かないままだったが、ぼくの母親はそれを信じていて、ぼくによく身欠ニシンを食べさせた。第2次大戦のために、いろんなものが不足する以前のことだ。
 京都の、身欠ニシンを使った料理でよく知られているのは、たぶん「ニシンそば」だろうが、少なくともぼくの家では、ニシンそばは家で主婦が作るものではなかったらしい。ぼくがよく食べさせられたのは、身欠ニシンとナスの煮物で、ナスの季節になると、1週間に1度くらいは、これが「おばんざい」だった。京都ふうにいえば「ニシンとナスの炊いたん」だ。
 関西では、煮ることを「炊く」という。「炊いたん」は「炊いたもの」のこと、つまり煮物だ。
 ぼくの家にかぎらず、京都のひとは「ニシンとナスの炊いたん」をよく食べていた。この身欠ニシンとナスのように、コンビが定着しているものを、京都では「合いもん」とか「出合いもん」と呼んでいる。要するに、合性がいいということだろう。
 サトイモのことを関西では子イモと呼ぶが、この子イモとよくコンビを組むのは、タラの干物である「棒ダラ」だ。サトイモの仲間の高級品、エビイモと棒ダラの煮物には「いもぼう」とりっぱな名称がつけられていて、これは料理屋の料理にもなっているが、一般の家庭では、ふつうの子イモを使う。
 京都の伝統を守る古風な家では、毎月15日に、この「子イモと棒ダラの炊いたん」を食べる習慣があったようだ。しかし、今日の若い京都人に、この風習が受けつがれているのかどうか。
 ぼくの両親は、大阪育ちのひとだった。そのせいで母親の京都の風習への関心が薄かったからか、かちかちに乾かされた棒ダラを、水に漬けてもどすのが面倒だったのか、わが家で子イモと棒ダラのコンビに出合うのは、正月のおせち料理のなかでだけだった。
 棒ダラを炊くかわりに、母親がよく作ったのは、子イモとイカの煮物だ。胴を輪切りにしたのに、足もいっしょにして子イモと炊いたもので、だからぼくの記憶のなかでは、子イモと棒ダラよりも、子イモとイカのほうが、ずっと馴染みの深いコンビだった。
 おとなになってから気付いたのだが、サトイモとイカのコンビは、関西だけでなくて、東京なんかでも、ごくふつうのもののようだ。いまぼくは、東京を離れて、埼玉県の桶川という小さな市に住んでいるのだが、桶川のスーパーにも、おそうざいのコーナーに、サトイモとイカの煮物が、いつも並んでいる。
 豚汁やけんちん汁、有名な山形県の「イモ煮」などなど、サトイモは他の根菜類といっしょに、汁や煮物になることが多いのだが、サトイモだけの煮物の場合にコンビを組むのがイカというのは、全国的なものなのかどうか。
 郷土料理の取材のために、日本全国をまわったとき、こんなところにも注意を向けておくべきだった。
 ぼくの家で、サトイモとイカのコンビが日常化したのは、身欠ニシンや棒ダラのような干物が、海産物としての重要な地位を、京都で占めていたころから時代がうつって、氷づめのイカがふつうに入るようになってからのことのはずだ。
 では、昔から新鮮なイカが、らくに手に入る地域で、サトイモとイカのコンビが、やはり成立していたのかどうか、ぼくの頭にはまだ疑問が残っている。

投稿者machizukuri : 2006年01朁Ed日 | コメント(0) | トラックバック

2005年07朁Ed日

クマのソーセージ

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 ハムやソーセージの手づくりが趣味のひとつという人も、少しくらいはいらっしゃるのだろう。ぼく自身、うまいソーセージを作ってみたくて、だいぶ前のことだが、松尾尚之氏著の「手づくりハム・ソーセージ」(創守社刊)という本を、わざわざ買った。

 だが、実行するとなると、やっぱりおっくうで、まだ手を出していない。

 ハムやソーセージやベーコンのたぐいは、家庭で作るものではなくて、すべて工場で生産されるものと、たいていの日本人はそう思い込んでいるのではなかろうか。

 もう40年くらいも前の話になるが、はじめてホンコンに行ったとき、民家の壁の高いところに、サラミみたいな色の細長い腸詰めが、6、7本ぶらさがっているのを見て、ちょっと感激したことがある。たぶん、自家製の腸詰めを陰干しにしていたのだろう。

 日本にはもともと、腸詰めの文化はなかったようだと、最初にぼくに教えてくれたのは、博識と大食で知られたSF作家の小松左京さんだったと記憶している。とにかくぼくは、人生50年といわれるその年まで、日本には伝統的な腸詰めは存在しなかったと思い込んでいたのだ。

 親しい仲間3人の力を借りて、ぼくが「日本の郷土料理」(ぎょうせい刊)全12巻の編集に取り組んだのは、昭和50年代が終わりに近づいたころからだが、そのための取材で福島県の奥会津、檜枝岐(ひのえまた)村へ出かけたときのことだ。檜枝岐は、かつては秘境だとか陸の孤島などと呼ばれていたところで、ぼくは若いころに、尾瀬を歩いたついでに足をのばしてみたことがある。20何年かぶりに訪れた桧枝岐は、きれいな道路が通り、若い人がよろこびそうなペンションなんかもできて、すっかり変わっていた。

 檜枝岐では、山人(やもうど)料理が売りものの旅館でお世話になり、そこのおかみさんから、何十年も前の話を、いろいろと聞かせてもらった。そのなかで、ぼくがとりわけびっくりしたのは、クマの腸詰めだった。おかみさんの祖父が猟師で、熊をしとめて解体すると、その腸をていねいに洗って、これにクマの腹腔にたまった血をつめ、両端をしばり、大きな鍋で煮て血をかため、それを輪切りにして家族で食べたというのだ。

 シカやイノシシの内臓を、猟師たちが煮込みにして食べる話は、若いころの山登りの途中なんかでも、何度か聞いたことがあるが、腸詰めの話に出くわしたのは、これが初めてだ。日本には腸詰めの文化がなかったという思い込みが、かんたんに崩れてしまった。

 檜枝岐は、栃木、群馬、新潟の3つの県に囲まれているが、このあたり一帯、あるいはこれ以外の山岳地域に、腸詰めの話が残っていないかどうか、少し調べてみたいと思ったが、手づくりのハムや腸詰めと同様、ちっとも実行にうつさないままだ。

投稿者machizukuri : 2005年07朁Ed日 | コメント(0) | トラックバック

2005年06朁Ed日

南池袋にあるモツ焼き屋

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 僕の店の近く―、もう少し正確にいうと、南池袋、町名はぼくの店と同じだが、もっと池袋の中心に近いところに、モツ焼きを食べさせる立ち飲みの店がある。

 たしか、2年くらい前の開店だと思うが、もとは小料理屋だった店を、かんたんに仕切った調理場以外は、ほとんどがらんどうの状態にして、そこにテーブルがわりのドラム缶を並べただけの、とにかく殺風景な内装だ。

 その店が、たいへんに繁盛している。開店して間のない頃は、いかにも小遣いのとぼしそうな若い男たちが、客の大半だったと記憶しているのだが、やがてその中に、若い女の子がまじり、そのうちに、女性だけの2人連れや3人連れ、そして、スーツにネクタイの中堅サラリーマンらしいグループもくわわって、どちらかと言えば、いまではこんな人たちが客の主流のように見える。

 天気のいい夜は、店の前にもドラム缶が2つ3つ、さらには店のわきに、ビールの空き箱に板きれを置いただけのテーブルと、そのテーブルのための、やはりビールの空き箱の腰掛けが、セットで置かれている。この低い腰掛けに、ミニスカートの女の子が腰をおろすと、たいていはパンティーが丸見えになって、そんなときに通りかかると、なんだかたいへんな得をしたような気分になる。

 このドラム缶の店の近くに、もっと本格的なモツ焼きの店もあって、ここも繁昌している。午後5時の開店前に、もう何人もの客が集まりはじめているし、開店して10分か20分もたつと、30〜40人は入れそうな店が、すでに満杯の状態だ。

 こんなに客が集まるのは、ブタやウシのモツ焼きやモツの煮込みが、単に値段が安いからだけではなくて、その味にしろ歯ごたえにしろ、さらにはいかにも栄養がありそうなことまで、現代日本人の好みにぴったりだからと考えるべきなのだろう。

 ブタやウシのモツ焼きや煮込み、あるいは刺し身のたぐいが、日本でごく一般的な食べ物になったのは、第2次大戦後のことだ。戦後の食糧難の時代に、貴重なタンパク源としてヤミ市に登場したモツ料理が、やがて一般化するまでの流れは、食文化史のひとつのテーマとして、もっと追いかけてみたい。

 東京のような大都市で食べられている哺乳類の動物のモツは、ふつうブタかウシの「それ」だが、信州には、ウマのモツ料理「おたぐり」がある。ウマの長い腸を、たぐり寄せるように取り出すことからきた名前だと聞いたが、この「おたぐり」には、煮込み型の料理と刺し身型の料理があるらしい。

 「らしい」と書いたのは、じつはぼくがまだ食べていないからで、生意気に食文化史を考える前に、まず食べなければと考えている。

投稿者machizukuri : 2005年06朁Ed日 | コメント(0) | トラックバック

2005年05朁Ed日

★★漬物★★

 菜っ葉類の漬物は、きざまれて食卓に出てくるのが、子供の頃からの当たり前のことだった。神戸で生まれ、そして小学校から中学校、高校を卒業するまで、ぼくは京都で育った。

 両親はどちらも大阪育ちの関西人だから、そもそも食卓の用意をする母親にとって、菜っ葉の漬物をきざんで出すのは、食べるだけの立場のぼく以上に、ごくあたりまえのことだったのだろう。

 京都の漬物といえば、ぼくの好みも加算して、どちらも寒いシーズンのものだが、まず、千枚漬けとスグキをあげることになると思う。

 千枚漬けは、直径が10p以上になる聖護院カブを、専用のカンナで薄くけずり、昆布と一緒に薄塩で下漬けしたあと、酢とみりんで本漬けして仕上げる。高さがたぶん5pぐらいの、平たい桶につめられた製品は、木のふたをとると、真っ白い千枚漬けを押さえるように、漬物が一束、桶の内側にそっと、緑の輪をつくっていた。

 大学に入ってから、生活の場が東京になり、やがて中年のオジサンになったころには、1年を通じて簡単に手に入るようになった野沢菜が、ぼくが食べる漬物の代表格にのしあがった。

 野沢菜は、家庭でも料理でも、3センチほどの長さに切って出すのが一般的なようだが、ぼくは関西人の習慣をかたくなに変えず、きざんで食べる。きざんだ野沢菜に、チリメンとかつお節、そして醤油をかける。これはあったかいご飯にも合うし、とくにお茶漬けの具には欠かせない。

 長野県野沢温泉村が原産地とされる野沢菜は、1756年に健命寺の住職が京都から天王寺カブを移植したものとの説が有力だが、もとはスグキナだったという話も何かで読んだことがある。いずれにせよ、野沢菜も千枚漬けも、スグキナも、カブの一族である。
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投稿者machizukuri : 2005年05朁Ed日 | コメント(0) | トラックバック