東京の池袋のはずれで、ぼくが小さなバーのマスターをやっていることは、前にも書いた。このあいだ、その池袋の、わりに安く食べさせてくれるすし屋で、店に出る前に軽く腹ごしらえをしていたときのこと。ぼくよりさきに、30歳前後と見えるOLらしい二人連れがきていて、そのひとりがタコを注文した。
「タレをぬってね」と彼女。「あいよ」と、すし屋のおやじさん。
とたんにぼくは、20年ばかり前のことを思い出した。
そのころぼくは、東京の西早稲田に住んでいて、ぼくがいたマンションのすぐ近くに、小さなすし屋があった。
原稿書きの仕事が一段落して、そのすし屋へ、夜食がてらに一杯やりにいったら、見かけたことのない中年男の客がいて、ぼくがぬる燗の酒を飲みはじめたところで、タコを注文した。そして、タレをぬってほしいんだけど、と言い足した。
そのすし屋のおやじは、ぼくとほぼ同年齢で、まるい顔がなんとなくタコを連想させる。本人もそれを自覚しているので、タコの注文を耳にした瞬間に、ぼくは思わず、彼のほうに視線を投げた。
ぼくの視線は無視して、おやじはちょっと面白くなさそうな表情でタコを握ったが、やがてその客が帰ると、愚痴でもこぼすような口ぶりでつぶやいた。
「まったく、もう……。うちはすし屋だよ。うなぎ屋じゃねぇんだから……」
彼の面白くなさそうな表情は、「タコ」という言葉に反応したぼくの視線のせいよりも、むしろ客の口から出た「タレ」のせいだったらしいと、ぼくもすぐに気がついた。
うなぎ屋が使うのがタレで、すし屋が、タコやアナゴやシャコに使うのはツメだと、その程度の知識はぼくにもあった。
そのころはもう、タコなどにツメをぬることが少なくなっていて、マグロなんかと同じように、ちょっと醤油をつけて食べるのが一般的になっていた。それでもたまには、ぬってくれと注文をする客もいたのだが、そんな客たちも、使う言葉はほとんどがタレだった。
醤油とみりんが主原料で、それに何年何十年と、そこをくぐる蒲焼きの味がしみこんだうなぎ屋のタレと違って、すし屋のツメは、アナゴの煮汁とハマグリの煮汁を煮つめて作る。もっとも、昭和の30年代から、すし屋のネタから煮ハマグリが急速に消えていって、20年ほど前のそのころは、ハマグリのかわりにホタテのヒモを煮て、この煮汁とアナゴの煮汁でツメを作っていると、西早稲田のオヤジから聞かされていた。ツメは「煮ツメ」がつまったものだろう。
言葉は時代とともに変化していくものだから、ツメがタレのなかにとりこまれてしまっても、しかたないのかもしれないが、タレとツメとの伝統的な違いは、やはり言葉として残しておきたいな……。池袋のすし屋で、最近では珍しく、タコにタレをぬらせた女性を、横眼で見ながら、ぼくはそんなことを考えていた。
はじめに思いついたタイトルは、『女殺しのねじ回し』だった。だが、いささかドギツイような気がして、結局、ただの『ねじ回し』に落ち着いた。
ねじ回しは、英語では「スクリュードライヴァー」だが、日本人の多くは、ねじ回しを単にドライヴァーと呼んでいる。そのせいか、スクリュードライヴァーといえば、ぼくの頭には、ねじ回しではなくて、飲み物のスクリュードライヴァーのほうが浮かんでしまう。
飲み物のスクリュードライヴァーは、ウォツカをオレンジジュースで割ったものだ。イギリスで出版された『クラシック・カクテルズ』という本で見ると、この飲み物には、「……1950年代に生まれたロング・ドリンクで、イラン駐在のアメリカ人の石油関係者が、ねじ回しでかきまぜたと話したことから……」と説明がついている。日本人が書いたカクテル・ブックにも、この説を紹介しているのがあった。
東京で学生生活をはじめたぼくが、スクリュードライヴァーに出合ったのは、朝鮮戦争が休戦になったあとだから、50年代の後半だったはずで、そのころぼくは、スクリュードライヴァーは朝鮮戦争の戦場で生まれたものだと思いこんでいた。親しくなった米軍の下士官が、「前線では、ねじ回しでかきまぜるものだったんだ」と話していたからだ。
当時のスクリュードライヴァーは、国産のウォツカを、なぜかびん詰めのバイアリースのオレンジジュースで割るものときまっていたようで、梅割りのショーチューなんかよりも、はるかにカッコイイ飲み物だった。それに、甘くて口当たりのいいスクリュードライヴァーには、「レディ・キラー」という肩書きみたいなものがついていて、女の子を酔わせるのに最適の飲み物だと信じている男が、たくさんいたのだ。
いま、ぼくの店でも、たまにスクリュードライヴァーを作るが、必ず生まのオレンジを使う。45ミリほどのウォツカを、オレンジ1個を絞ったジュースで割るのだが、この量では大きなタンブラーを満たせないので、オン・ザ・ロックのスタイルにする。
大きなタンブラーに、氷と、ウォツカたっぷり60ミリ以上入れ、これをオレンジジュースで満たして、ごくごく飲むのが本筋ではなかろうかと、いつも思うし、家ではそうやって飲んでいるが、紙パックのジュースを使うと、なんだか居酒屋風になってしまいそうで、バーではちょっと具合いがわるい。
若い女性客に作ったときなんかは、「昔はレディ・キラーと呼ばれてたんですよ」などと話すのだが、女性客はたいてい、不思議そうな顔をする。たしかに、いまどきの女の子は、スクリュードライヴァーの一杯や二杯で酔っぱらったりはしないのだ。
現代の「女殺し」と呼んでもらえそうなオリジナル・カクテルを、ぼくもいくつか考案して、それなりに評判もいいのだが、それでも、ぼくの店にきてくれる女性客には、殺しの小道具としては通用しないらしい。





ソープランドの前身であるトルコ風呂へ、ぼくがせっせと足を運んでいたころ、トルコ風呂の個室のドアには、一辺が30センチか40センチくらいの小窓が必ずついていた。
もちろん、個室の内部での、トルコ嬢のよからぬ行動を封じるための仕掛けだ。もしも彼女らが、ユニフォームを脱ぐようなことをしたら、すぐにバレるぞと、間接的に脅していたのだろう。
幅のせまいベッドでのマッサージは、うつ伏せに横になった客の背中にタオルをかけ、肩と背中と腰を軽くマッサージするのがメインで、その最後に、トルコ嬢が客の腰にまたがり、彼女の尻をゆすって、股間を客にすりつけるようなサービスによく出合った。
背面のマッサージがすむと、客を仰向けにして、胸から腹部にタオルをかける。そして、胸やふとももを少しなでまわすのだが、これはマッサージというより、「おスペ」か「ダブスペ」のための前奏曲みたいなもので、三度、四度と指名を重ねると、客の下腹部に手をおき、タオルの上から、指先で客のものをからかう例が多かった。
このときトルコ嬢は、せまいベッドの客のかたわらへ、お尻のサイドを客に押し付けるように腰をおろすのだが、彼女の背中はドアのほうに向けられていて、かりに誰かがドアの窓からのぞいても、客の下半身は絶対に見えないという仕組みだ。
「するんでしょ?」
「うん。ダブルでお願い」
こんな調子の短いやりとりがあって、そこでトルコ嬢はおもむろに、たいていはベッドの頭のほうにある棚から、乳液のびんをとる。このころはまだ、トルコ風呂専用のような、ねばっこいローションが開発されていなかったのだろう。潤滑剤としての乳液を手のひらにとって、あらためてベッドに腰をおろし、客の胸から腹にかけたタオルをまくりあげて、いよいよダブスペが始まる。ぼくが知っている範囲では、これが普通の進行だったと記憶している。
新宿のはずれの、はじめて入った店で出会った小柄なトルコ嬢の場合も、似たような進行だった。
だが、そのトルコ嬢は、乳液をとるために腰をあげようとはしなかった。
「ちょっと変わったこと、しましょうか?」
ぼくにかけたタオルをまくりあげ、下腹部をむきだしにしたところで、彼女はささやくように言った。
変わったことって、どんなことだと、のどまで出かかった言葉を、ぼくは飲み込んだ。ぼくのものはすでに半分以上起き上がっていたし、その根元近くを、彼女の一方の手が軽くつかまえていた。
ぼくのかたわら、正確にいうと、ぼくの右側に腰をおろしたまま、彼女はぼくの側の足、つまり彼女の左足をあげた。その膝がぼくの顔をまたぐ形になり、彼女はベッドの反対側の壁に足を押し付けて、あげた膝を支えた。ぼくが左手をちょっとのばせば、すぐにもぐりこめるところへ、ショートパンツのすそがきた。
そして彼女は、その姿勢のままで上体を倒して、ほとんど立ち上がっていたぼくのものを、すっぽり口へ吸い込んだのだ。
これが噂のトルコ嬢だったのだろうかと、ぼくは頭の片隅でぼんやり考えていた。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「口の価値」についての話が、少しつづいてしまいました。読んでくださる方に飽きられると困るので、このへんでちょっと寄り道をして、酒の話を1、2本はさみ、それからまた口の話に戻りたいと思います。口でのサービスについては、じつはこの先が、ぼくの書きたいことの主要部分なのです。
]]> 平均すれば、たぶん週に1回程度だったと思うのだが、新宿の彼女に楽しいサービスを提供してもらっていたころ、やはり東京の五反田に、おもしろいトルコ娘がいるという噂が耳に入った。
マッサージが終わって、客が「ダブルでお願い…」と注文したところで、そのトルコ嬢は、「見るの?さわるの?」とたずねるのだそうだ。
つまり、彼女の「ダブスペ」には、「おスペ」プラス彼女の大切なところを見せていただくのと、「おスペ」プラスそこに触れさせていただくのと、ふたつの選択があることになる。
だが、新宿の彼女に満足していたぼくは、一応は好奇心を燃やしながらも、五反田にまで足をのばすことはしなかった。
いま考えると、それだけの好奇心を満たしてやる努力をしなかったのは、物書き稼業の若手として、じつにだらしがなかったと言われてもしかたがない。
「見るの?さわるの?」
とたずねられて、
「両方、お願い!」
と答えたら、五反田のそのトルコ嬢は、いったいどんな反応をしめしたのだろう?それと、もし客が「見る」ほうを選んだ場合、彼女がどんな姿勢で、どんなふうにそこを見せてくれるのか、いまとなればそれも知りたい。
とにかく、少なくとも一度か二度は、ちゃんと探検してみるべきだった。
新宿のどこかに、口を使うトルコ嬢がいる……。そんな噂を聞いてまもなく、ほんとうにその噂の主だったのかどうかはわからないが、ぼくはじっさいにトルコ嬢の口のサービスを体験することになった。まったくの偶然だった。
新宿で少し飲んで、ぼくはほろ酔いの状態だった。酔いというやつには、きっと文化的な抑制を、うんとゆるめてしまう機能があるのだろう。ぼくは当然のように、トルコ風呂へ向かう気になっていた。そしてその夜は、なぜか初めての店にしようときめていた。
何軒ものトルコ風呂が集まっている地域には、意識的に足を向けなかった。その地域につけば、どうせ馴染みのトルコ嬢のだれかを指名してしまうだろうと思ったからだ。
新宿の繁華街からはずれて、明治通りを池袋方面へ少し歩き、横丁のひとつに入ると、あまり目立たないトルコ風呂が、一軒だけあることに、前から気がついていた。
ぼくをほろ酔いの状態にしてくれたバーからは、わりに近くだということもあって、とくにためらうこともなく、ぼくは初めてのそのトルコ風呂に入った。
そこで、口を使ってくれるトルコ嬢に出会ったのだ。
そのトルコ嬢を、その後何度も指名することになった。
新宿のトルコ風呂の彼女とは、ちゃんと裏を返して、さらにもう一度会ったわけだから、ぼつぼつ多少は無理な注文をしてもいいだろうと、そのときのぼくは、心のどこかでそんな計算をしていたのかもしれない。
微笑を浮かべながら、「いいわよ」と、あっさりこたえられて、とくに無理な注文ではなくて、じつは常連の客の多くが、彼女の手で「前」を洗ってもらっているのかもしれないと、ぼくは思った。
いったんぼくにさし出したタオルをひっこめて、彼女はそれを、かたわらの洗面器においた。そして、両手に石けんをはさんで、手のひらにていねいにこすりつけた。
彼女の手が、ぼくの「前」にのびた。
東京でオリンピックが開催されたのは、昭和39年(1964)のことだ。名馬シンザンがセントライトについで、2頭目の三冠馬になった年でもある。その前後のあたりから、急激に発展し増幅したトルコ風呂のテクニックのなかで、客の大切なものをトルコ嬢が素手で洗うのは、いわば基本中の基本テクニックになっていた。腰をおろした客の、股間の部分が空間になっていて、客が腰を浮かすことなしに、トルコ嬢の手が客の股間に自由にはいりこめるタイプの「スケベ椅子」と呼ばれることになるトルコ風呂専用の腰かけが、はじめは木製のもので登場し、トルコ嬢が客の大切なものはもちろん、お尻の穴まで素手で洗うのが、このころには当たり前のサービスとして定着していた。だが、それより何年か前に、新宿の彼女は、客のものを素手で洗う常連客向けのサービスを、すでに実行していたわけだ。
若い女性に、素手でいじられて、しかもそのいじりようが、いかにも刺激的なものだったから、ぼくのものは、当然の反応をすぐにあらわしてしまった。
「こんなになっちゃった」彼女が言った。
「しょうがないよ。きみの手が、そうしむけたんだもの」
「一度出しちゃう?」
「そうしたいけど、あとの楽しみが台なしにならないかな…」
「大丈夫よ、きっと。元気があるんだから。あとであたしにさわったら、すぐにまた元気になるわ、きっと…」
彼女の手が、べつの動きを始めた。
さきに「ダブスペ」の説明をしたとき、トルコ嬢が客のものをしごくのと同時に、客のほうも、手を彼女のショート・パンツのすそからさしこみ、さらに指をパンティの脇からもぐりこませることが許されるサービスを指すのが、もっとも一般的な説だと書いた。そして、「おスペ」を2回楽しむことだという異説があることにもふれておいた。
新宿の彼女と3度目に会ったとき、ぼくはこのふたつの説を、同時に確認したことになる。
新宿のどこかに、口を使ってくれるトルコ嬢がいる…。そんな噂を耳にしたのは、それから1年か2年ばかり後のことだ。
]]>「おスペ」や「ダブスペ」という用語が元気なころだから、昭和30年代の中頃だったろう。そのころ、マッサージにとりかかる前の、トルコ嬢が客の体を洗う段階で、客の「前」…、つまり下腹部は、客が自分で洗うことになっていた。ぼくが思い出したのはこのことで、そこから連鎖的に、そのときの体験がよみがえったのだ。
浴室用の小さな腰かけに腰をおろした客の、まず背中を流し、(ここからの順序は、当時の実際と少し違っているかもしれないのだが)胸を洗い、腕や足を洗ってから、トルコ嬢は一度タオルをゆすいで、あらためてタオルに石けんをすりこむ。そして、そのタオルを客にさし出すのだ。
とくに気にしないで「タオル」と書いてしまったのだが、この記憶は、たぶん間違いではないと思う。体を洗うのに、それ専用のスポンジを使うようになるのは、もう少し後のことのはずだ。
もっとも、このスポンジの使用が、日本のトルコ風呂の技術史のなかで、じつはたいへんに大きな意味を持つことになる。それは、いわゆる「泡踊り」のための、こまかな泡のかたまりを作るのに、スポンジが欠かせないからだ。
「泡踊り」をはじめ、トルコ風呂で開発されたさまざまなテクニックは、やがてマスコミにものって、日本人の性的な行動に、ずいぶん影響をあたえることになるのだが、それについても、いずれ書くつもりでいる。
「前はご自分でどうぞ」
あらためて石けんをすりつけたタオルをわたしながら、トルコ嬢が言う。
言われればしかたがないから、タオルを受けとって、自分でもそもそ洗うのだが、これがなんとも味気ない。
新店のトルコ風呂で、三度目に会ったトルコ嬢に、ぼくは思いきって言ってみた。
「ついでに、きみが洗っておくれよ。どうせ、あとでいじることになるんだから」
彼女と最初に出会ったときには、単純な「おスペ」を、マッサージのあとで楽しんだだけだった。
とくに美人というわけでもなく、おっぱいやお尻にとくに魅力があるわけでもなかったけれど、ぼくにとってはとても親しみやすいタイプの女性で、だからぼくは、数日後にまたその店をたずね、彼女を指名した。指名料がべつに必要だったという記憶はない。店に払う入浴料が、500円だか800円だかの時代で、あとでトルコ嬢にわたすサービス料が、「ダブスペ」を楽しんで、たぶん1000円だったと思う。大学出の初任給が、まだ1万円台だったのだろう。ぼくは、やっと連載ものなんかの注文もふえて、同年代の若者よりは、小遣いにだいぶゆとりがあったのだ。
二度目に会ったとき、「ダブスペ」にクラスを上げた。そして三度目に、さきの注文を切り出した。
彼女の顔に、思いがけない微笑がひろがった。
「いいわよ」
あっさりと言って、彼女は、いったんぼくに出したタオルをひっこめた。
]]>60歳台以上の男性で、若いころにトルコ風呂=現在のソープランド=へちょくちょく足を向けていた人には、とても懐かしい用語だろう。
「おスペ」は、スペシャル・サービスのこと。スペシャル・サービスが、スペシャルだけになり、やがて「おスペ」に落ち着いたらしい。
「ダブスペ」は、ダブル・スペシャルの省略形だ。
日本の各地、とくにもとの赤線と呼ばれていた街で、トルコ風呂が発展するのは、売春防止法が1年間の猶予期間をへて全面的にスタートした昭和33年=1958年の4月1日以降のことだが、のちに「トルコ風呂」と総称されるようになる個室型の浴場は、それ以前に出現していた。ぼくが知っている限りでは、東京で最初にできた公認のトルコ風呂は、銀座のはずれに登場した「東京温泉」で、1970年代にはいってからぼくが調べた時には、昭和26年=1951年に開業ということだった。そして、1953年の暮れには、30軒ほどの個室つき浴場が、東京で営業していたそうだ。
この「東京温泉」で、一部のトルコ嬢が、客としてやってくる駐留軍の兵士の要求にこたえて、手で射精までの面倒をみるサービスが生まれ、スペシャル・サービスとひそかによばれていた。これがのちの「おスペ」の源流ということに、一応はなっている。
「おスペ」は、かつて駐留軍の兵士が受けたのと同じようなサービスで、トルコ嬢が、客の体を洗い、かんたんなマッサージを終えたところで、客の注文を確認してから、手で射精までみちびいてくれるものだ。
「ダブスペ」のほうは、トルコ嬢が客のものに触れているあいだ、客もトルコ嬢の大事なところをさわってよろしいというサービス。ただし、トルコ嬢はユニフォームを絶対に脱がないのが原則だから、客は、当時の一般的なユニフォームだったショートパンツのすそから手を入れ、パンティのわきから指をもぐりこませるのが普通の楽しみ方だった。
もっとも、「ダブスペ」にはもうひとつの説もあって、それは1回の入浴で2度「おスペ」を楽しむ場合をさすというものだ。
たしかに「おスペ」を2回楽しませてもらうことはあった。この場合は、体を洗ってもらう段階で一度、そしてマッサージのあとでもう一度頑張ることになる。ただ、この2度放出する場合、ぼくのたよりない記憶では、とくに「ダブスペ」とは呼ばず、「2回お願いね」などと頼んでいたはずだ。2度目のときは、当然のように、ショートパンツのすそから手を入れていたから、最初の1回は、「ダブスペ」のおまけのような感覚だったのだろう。
いずれにしても、昭和30年代中頃のこの当時、トルコ嬢のサービスに、やがて彼女の口の参加があたりまえのことになるなど、ぼくは考えもしなかったのである。
]]>暑い季節になると、とりあえずのビールを飲んだあとは、ウィスキーやジンやいも焼酎などの蒸留酒を飲むことが多くなって、そんな酒たちはちゃんと補充するのだが、日本酒の補充がついおろそかになり、この原稿を書きはじめるのに、念のために台所にいってみたら、日本酒は2種類しかなかった。
しかも、2種類のうちのひとつは、料理に使う普通酒で、いま手もとにある晩酌用の日本酒は、純米酒がたった1種類だけということになる。もっとも、気がつけば適当な日本酒がすっかりなくなっているという事態も、とくに珍しくはなくて、そんなときは料理用のを、ありがたくいただくのだから、2種類しかなくても、文句はいえない。
ところで、いま手もとにある2種類の日本酒、その原材料は、それぞれつぎのように表示されている。
まず、普通酒のほうが、「米・米麹・醸造アルコール・糖類」
純米酒のほうは、当然のことだが、醸造アルコールと糖類はなくて、「米・米こうじ」
米麹は、蒸した米に、黄麹と呼ばれるコウジカビの一種の胞子をふりかけて、適当な温度と湿度のもとで繁殖させたものだ。
米と水に、あとは米麹さえあれば日本酒ができると思い込んでいる人は、日本酒党のなかにも意外に多い。たしかに、純米酒のラベルに表示されている原材料を見れば、そう思い込んでも不思議ではないのだろう。
だが、コウジカビの酵素がやってくれるのは、米のデンプンを糖に変える段階までだ。だから、米と水と米麹だけで造れるのは甘酒で、日本酒は造れない。甘酒から日本酒にすすめるためには、糖をアルコールに変える酵素が必要になる。
この酵素を出す酵母は、日本酒を造る蔵から菌を採集して、特定のものを純粋培養して使う。代表的な酵母のひとつ、「協会酵母9号」は熊本県の蔵元から採集・分離されたものだ。酵母のなかには、県が開発したものもあって、よく知られている「アルプス酵母」は、長野県が開発した。
つい「よく知られている」と書いたが、よく知っているのは酒造関係者や、ぼくみたいに好きな酒のことを書きたがる人間だけかもしれない。ぼくの周囲にいる長野県の出身者で、そこそこ酒を飲む連中の何人かにきいてみたが、「アルプス酵母」を知っていたのは、ひとりもいなかった。
酵母そのものを飲むわけではないから、原料に入れてもらえないのかもしれないが、使用酵母の名を表示している例は少ない。長野県の蔵元は、もっと「アルプス酵母」を使って宣伝し、県の名物に育てればいいのにと思うのだが…。
]]>
だが、実行するとなると、やっぱりおっくうで、まだ手を出していない。
ハムやソーセージやベーコンのたぐいは、家庭で作るものではなくて、すべて工場で生産されるものと、たいていの日本人はそう思い込んでいるのではなかろうか。
もう40年くらいも前の話になるが、はじめてホンコンに行ったとき、民家の壁の高いところに、サラミみたいな色の細長い腸詰めが、6、7本ぶらさがっているのを見て、ちょっと感激したことがある。たぶん、自家製の腸詰めを陰干しにしていたのだろう。
日本にはもともと、腸詰めの文化はなかったようだと、最初にぼくに教えてくれたのは、博識と大食で知られたSF作家の小松左京さんだったと記憶している。とにかくぼくは、人生50年といわれるその年まで、日本には伝統的な腸詰めは存在しなかったと思い込んでいたのだ。
親しい仲間3人の力を借りて、ぼくが「日本の郷土料理」(ぎょうせい刊)全12巻の編集に取り組んだのは、昭和50年代が終わりに近づいたころからだが、そのための取材で福島県の奥会津、檜枝岐(ひのえまた)村へ出かけたときのことだ。檜枝岐は、かつては秘境だとか陸の孤島などと呼ばれていたところで、ぼくは若いころに、尾瀬を歩いたついでに足をのばしてみたことがある。20何年かぶりに訪れた桧枝岐は、きれいな道路が通り、若い人がよろこびそうなペンションなんかもできて、すっかり変わっていた。
檜枝岐では、山人(やもうど)料理が売りものの旅館でお世話になり、そこのおかみさんから、何十年も前の話を、いろいろと聞かせてもらった。そのなかで、ぼくがとりわけびっくりしたのは、クマの腸詰めだった。おかみさんの祖父が猟師で、熊をしとめて解体すると、その腸をていねいに洗って、これにクマの腹腔にたまった血をつめ、両端をしばり、大きな鍋で煮て血をかため、それを輪切りにして家族で食べたというのだ。
シカやイノシシの内臓を、猟師たちが煮込みにして食べる話は、若いころの山登りの途中なんかでも、何度か聞いたことがあるが、腸詰めの話に出くわしたのは、これが初めてだ。日本には腸詰めの文化がなかったという思い込みが、かんたんに崩れてしまった。
檜枝岐は、栃木、群馬、新潟の3つの県に囲まれているが、このあたり一帯、あるいはこれ以外の山岳地域に、腸詰めの話が残っていないかどうか、少し調べてみたいと思ったが、手づくりのハムや腸詰めと同様、ちっとも実行にうつさないままだ。
先日、ほんとうに何年ぶりかで、ストリップ小屋に足を運んだ。
10年くらい前までは、酒や食べものについてよりも、セックスがらみのことを書く機会のほうが、むしろ多いほどだったので、半分は勉強のつもりで、ストリップにも、できるだけ足を向けるようにしていたが、とくにバー商売を始めてからは、すっかりご無沙汰しているのだ。
ステージに登場した踊り子さんは、たしか7人だったが、そのうち4人までがインスタント・カメラのショウを売り物にしていた。ご存知のない方のために、あえて書いておくと、ステージでの踊りがひととおり終わったところで、踊り子さんがインスタント・カメラを持ち出し、希望する客にわたして、客が注文するポーズを撮らせてくれる。1枚が500円で、たいていの客は1000円札を出して、2枚撮る。3枚も4枚も撮る客はあまりいないようだ。
客が注文するポーズの代表的なものは「Mでオープン」と「Lでオープン」、それに「バックでオープン」。
「M」は、ステージにしゃがんだ踊り子さんが、両膝をM字型に開くポーズ。「L」は、一方の脚をステージに投げ出し、もう一方の足首を手でもって、垂直につきあげるポーズを指す。「バック」は、客のほうにお尻を向けての四つん這いだ。むろん両膝は大きく開く。 「オープン」は、踊り子さんが、両手の指で、あるいは一方の手の指で、彼女のたいせつなところを、思い切り開いて見せてくれることだ。
4人の踊り子さんのそれぞれに、手をあげて注文した客は、5人から7、8人くらいいたから、ひとりで何人もの踊り子さんを撮った客もいるが、とにかく延べにして2、30人がカメラを借りたことになる。
どうやら、お目当てらしい踊り子さんひとりの顔を1枚と、オッパイむきだしの上半身1枚撮って、握手をせがんだ客がひとりだけいたが、あとはぼくをふくめて全員、MかLかバックのうち2点、あるいはひとつをオープンつきでえらんでいた。
インスタント・カメラを使うサービスは、「ポラロイド・ショウ」などと称して、たぶん20年以上前から存在していたはずだが、それをやる踊り子さんは、出演者のなかの一人か二人だったと記憶している。「正面とバック。できたら指でひろげてくれる?」なんて注文したものだ。
4人もの踊り子さんの、大事なところを撮ることができて、「Mでオープン」みたいな、専門用語まで定着しているらしいことは、ぼくにはちょっとした驚きだった。
日本の性の文化には、性器、とくに女性のそれへのこだわりがとくに強い傾向があると、ぼくも何度か書いたが、この伝統は今日も健在らしい。ただ、幸せそうに写真を撮っていたのは、すべて中年以上の年輩だった。現代の若者にも、女性器へのこだわりは、ちゃんと受け継がれているのだろうか。
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